「光は闇の中で輝いている」ヨハネ1:1~9

クリスマスおめでとうございます。

 イエス様が、私たちの救いのためにこの地上に来てくださったクリスマスに、国井雄歩君のバプテスマ式が行われることを心から感謝します。クリスマス、それは暗いこの世に、待ち望まれていた救い主が、「まことの光」として来てくださった日です。今日の中心に御言葉は、5節です。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 この御言葉は、口語訳聖書では、こう訳されています。

「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」

 光が、輝くと一瞬にして、闇は消え去ります。そして、どんな暗闇も光に勝つことはできません。

 イエス様は、約2000年前のクリスマスに真っ暗なこの世を照らす、まことの光としてお生まれになったのです。

 今朝は、この光について、ヨハネ1:1~9から3つのことをお話ししたいと思います。

 

(1)光を造られた救い主

1~3節

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

 

 「初めに言葉があった」とありますが、天地創造が行われる前、この世はどのようなところだったのでしょう。創世記、1章1~3節には、こう書かれています。

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」

  神様が天地創造をなさる前は、光が一つもない、深い誰も経験をしたことのない暗闇の中にありました。そこで、神様が「光あれ」と言われると、今まで闇に包まれていたこの世に光が差し込んで、世界中を照らしたのです。神様は、太陽の光も月の光も星の光も造られたお方です。

 このように、神様は、「光あれ」という一言で、光を造られたお方です。ということは、神様は、私たちの人生に、どのような、苦しみやかなしみという「暗闇」が襲ってこようと、その心の中に「光あれ」と必ず光を与えてくださるということです。

 

  みなさんの中にも、今、暗闇の中を歩んでおられる方がおられるでしょうか。そして、この問題は、自分には手に負えないし、誰に頼ったもどうすることも出来ないと、失望したりあきらめてしまってはいないでしょうか。

 けれども、諦めないでください。イエス・キリストは、天地創造の時に光を創造された方です。そのお方が、私たちの心の中に光を与えてくださらないはずがありません。「光あれ」と一言でこの地上に光を造られたお方は、あなたの心の中にも光を与えてくださるお方なのです。

 

(2)暗闇からの救い主

5節

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

  後半に「暗闇は光を理解しなかった。」  とありますが、旧約聖書は、まさに、神の光を理解しなかった歴史であるといっていいと思います。

6~8節には、バプテスマのヨハネのことが書かれています。

 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

  このバプテスマのヨハネの使命は、光について証しをするためでした。そして、バプテスマのヨハネが伝えたのは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ3:2)というメッセージです。バプテスマのヨハネはメシア預言をした最後の預言者ですが、神様は私たちを愛してくださって、「罪を悔い改めて、神様に立ち帰るように。」と私たちを招いておられるのです。 

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

  暗闇に生きる人とは、どのような人でしょうか。

 罪を犯した人は、だいたい光をさけて、暗闇の中にいようとします。 

 あの最初に作られたアダムとエバは、神様に食べてはならないと言われていた「善悪を知る知識の木」から実を取って食べてしまいました。その後、神様がエデンの園に来られて、「どこにいるのか?」とアダムを呼ばれました。ところが、罪を犯したアダムは、光を避けるように、園の木の間に隠れてしまったのです。

 庭の石をひっくり返したことがありますか。

 石を、ひっくり返すと、その虫はどうしますか?

石をひっくり返すと、石の下にいた虫が、必死になって穴の中の暗いところに隠れようとします。そのように、罪を犯した人は、光から逃げて、暗闇へと隠れようとするのです。

 そして、私たちがイエス様の光に照らされる時、私たちの醜い姿や、自分の罪を知らされるのです。

 しかし、それは、イエス様が私達を苦しめるために、そうされるのではなく、その罪を悔い改めて、神様に立ち帰るように招いておられるのです。

 ですから、「自分が罪人だと思う時、自分なんか神様を信じる資格がない。」「自分なんか駄目だ」と言って神様から離れないでください。罪を示された時、自分が本当に罪人だと思ったその時が、救いに与るチャンスなのです。

 神様が、私たちに罪を示される時は、いつもイエス様の十字架に立ち帰るように招いておられるのです。罪を示された時こそが、救いに預かるチャンスです。どうか、罪を悔い改めて、神様のもとに立ち返ってください。

 

(3)すべての人を照らすまことの光

9節

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

 神様は、そのような罪に汚れ、暗闇の中を歩み続けている人間の救いのために、「まことの光である」イエス・キリストをこの地上に送ってくださったのです。

  このイエス様は、御自分のことを「まことの光である」とおっしゃっておられます。

ヨハネ8:12

 イエス様こそが、「世の光」「まことの光」です。そして、続いて「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」  とおっしゃいました。

  「従う」ということは、イエス様につながることです。電気のコードが切れてしまったら電気は付きません。けれども、そのコードをつなぎ合わせるのと、電気がついて光を灯すことが出来ます。

 そのように、イエス・キリストの十字架の福音を信じて、イエス様につながるならば、私たちの心も明るく輝くことが出来るのです。イエス・キリストは「まことの光」としてこの地上に来られました。このイエス様を心にお迎えして、光の中を歩ませていただきましょう。

 アメリカのマサチューセッツ州のネイサン・ノーマンくんという男の子の事が、テレビで放送されました。(フジTV「奇跡体験!アンビリバボー」2013年1月31日)

 男の子なのに、ネーサン・ノーマンという名前です。面白いなと思いました。このネイサン君が3歳の時に、悪性の脳腫瘍という病気になってしまいました。6歳の時に脊髄に腫瘍が転移して、お医者さんに、「この病気は治すことは出来ません。」と言われてしまいました。それでも、ネイサンくんの心の中には、変わらない光が輝いていました。

 どうしてでしょう?

 ネイサン君のお父さんとお母さんは、ノーマンのことを心から愛していました。そして、ネイサン君は、小さい頃にイエス様を信じて、心の中にお迎えしたのです。

 だから、病気という暗闇の中にあっても、心の中はいつも輝いていたのです。

 ネイサン君は、生きている間に、イエス様の事を伝えたいと思いました。そして、9月だというのに、クリスマスの飾り付けを始めたのです。

 夜、ネイサン君の家の前を通る人たちが、福音のメッセージが伝わるようにいろいろ工夫をしました。多くの人がそのイルミネーションを見て慰められ、ネイサン君のところに感謝のクリスマスカードやプレゼントが届きました。ネイサン君は、それを病気の子どもたちに寄付をしました。

 ネイサン君の病気は、だんだん悪くなり、12月には、庭に出て行くことも出来なくなって、ソファーで、横になっていました。

 ネイサン君は、大きくなったら警察官になりたいと思っていました。そのことを知っていたお父さんは、「最後にクリスマスカードを送って下さい。」と警察官にお願いしたのです。

 すると、ネイサン君のことを良く知っていた警察官が、「ネイサン君に直接クリスマスカードを手渡ししましょう」と約束してくれたのです。クリスマスの日、お父さんは約束の場所、リバティー大学キャンパスにネイサン君を連れて行きました。すると、そこに、100台のパトカーが集まっていたのです。そして、いっせいにパトカーの赤い光を付けて、ゆっくり、ネイサン君の周りを回り始めたのです。そのパトカーの行列は、大きなクリスマスイルミネーションになりました。そして、250人以上の警察官が、パトカーから降りて、ネイサン君に敬礼をして、クリスマス・プレゼントが贈られたのです。

 イエス・キリストこそが、暗闇を照らすまことの光です。

 私たちの心が今、どのような暗闇の中にあっても、まことの光であるイエス様をお迎えする時、その心の暗闇は消え去り、希望の光の中を生きることができるのです。

 クリスマスを迎えようとしているこの時、このまことの光であるイエス様を見上げましょう。そして、決して消えることのない「まことの光」の中を歩ませていただきましょう。

 どうでしょうか。みなさんの心の中に、暗闇があるでしょうか。もし、そのような暗闇があなたの心にあるならば、ぜひ、今日、「まことの光」である。イエス・キリストを、信じて、心に受け入れて下さい。このイエス・キリストは混沌とした世の中に、光を創造されたお方です。そのお方が、私たちの心の中に光を与えて下さらないはずがありません。そして、そのまことの光であるイエス様を心にお迎えして、私たちをこの世を照らす世の光として用いていただきましょう。